トレイを手に戻ると、小さな部屋のベッドに莉子は腰掛けて、理玖を膝に乗せていた。
「あれれー、ママ帰って来たね」
と、声をかけると、「きゃあ」、と理玖はまた高い声をあげた。
「きゃあ」、と、いうその声を莉子も真似すると、理玖は体を伸び上がらせるようにして、さらに何度も、前より高い声で発声した。
こんな小さな部屋にいても、理玖からはこんなに無邪気な笑い声が溢れるのだと思うと、今まで自分が、我が子から奪っていたものの大きさを知る。
二人で声を出さないように、理玖はまるでそこにいないかのように、暮らしはじめてもう半年になるのだ。はじめはなんとかできたかもしれないが、理玖だって一人の人間なのだ。生きて、成長しているのだと思う。
「紅茶、これしか見当たらなくて。アールグレイなんだけど」
「アールグレイ、好きだよ。前に紅茶の店に行ったら、アールグレイにミルクは入れないでくださいって言われたんだけど、私は入れるの好きなんだ。勝手だよね、そんなの」
「はい、ミルク。ちゃんと温めてある」
言わなかったが、夫がそうしてコーヒーや紅茶を飲むのが好きだった。ミルクは温めると、少しふわっとなる、と言っていた。そのひと手間を惜しまずいられることが、愛情の証のように思っていた。間違ってなんかいないと思う。今、莉子が目の前で美味しそうにミルクをたくさん入れた紅茶を飲んでくれている。こんな小さな角部屋に、ミルクティーの香りが広がる。
私はお皿の上にバナナを潰し、スプーンで理玖の口に運ぶ。赤いお口が、バナナを含み、もぐもぐ動く。
きゃあ、とまた声をあげる。
今日は、きゃあ、の日だ。理玖の発見や感動が、皆その音に詰まっている。
二人でそれぞれカップに、紅茶を注ぐ。バナナの後は、私は理玖に母乳をやって、体を揺らす。
「お腹、空きましたよね。私たちも」
「大丈夫、これいただくね」
クッキーを噛み、「さすが、高級クッキー」と、莉子が分厚いチョコレートの層を見る。
体から母乳が吸い上げられていく強い力を感じながら、理玖の顔を覗き込むと、額に汗を浮かべている。
今にも閉じそうな理玖のまぶたを見つめる。
「リクくん、もう、ずっしり重いね」
莉子は、食べかけのクッキーを皿に置くと、そんな理玖を目を細めて見ていた。
「今度、美夏さんの髪、切ろうかな。せっかく、綺麗な髪なのに」
元々髪の毛が多くて、毛質も堅い。無造作に結んでいるだけだから、結び目さえもがすぐに解けていく。義母は、「あなたのサンバラ髪、なんとかならないの?」と、呆れたように言う。サンバラなんて、はじめて聞いた言葉で、スマホで調べた。ざんばら髪のことだった。長く振り乱した髪、本来は、髷の崩れた状態を言う。
「お願いしようかな。なんとかなります?」
「どれどれ」
と、莉子は私の後に立って、髪の毛のゴムを解いた。髪の毛を肩に解いて、手で広げているようだった。
「鏡?ないか」
と、部屋を見渡しているので、机の引き出しから、折り畳みの鏡を取り出した。一番上の引き出しには、自分の数少ない化粧道具や、ヘアブラシも入っている。じつは、次の段には、下着が、その次の段には、衣類が収まっている。
理玖のおむつや衣類は、取り出しやすいように籠に収めて並べてある。
「持てる?見ていて」
そう言うと、髪の毛先を指で外に跳ねさせたり、顎のラインに持ち上げたりして見せる。前髪も眉のあたりにして試す。その仕草や目線は、いかにも美容師だった。
「少し落ち着いたら、いろんな髪型が似合いそうだね。でも今は、一つに結んで、リクくんと一緒に、ここでぎゅっと生きてるんだよね」
莉子の細い指先が、今は意外にも温かかった。
「じゃあ、今日は一つだけね。前髪も長い人用の豊かな黒髪の一つ結び、まず結ぶ位置は、耳の上からこのくらい、指、二本くらい高く、ざっくり持ち上げて、それから、トップだけ、ぺたんとならないように、ここは、自分でやるなら、スプレー使おう。ハードスプレー、だけ買って。結んだら、サイドにもスプレー。見て」
そこに映った顔は、決して、見知らぬ誰かのようではなかった。むしろ、年相応に生き生きと見えた。昔から、髪の毛のアレンジのようなことが好きではなくて、馬術部の頃から、鏡も見ずに無造作に結んできた。
そんな自分でいることが、好ましかったのだと思う。
莉子の若い頃は、きっと真逆だったろう。ヘアスタイルやメイクに敏感で、おしゃれに貪欲で。今だって、いかにも無造作に見えるが、莉子の髪の結び目は、くるくるっとねじれている。
温めたミルクと同じだ。ほんの少し工夫するのが、愛情なのだ。私は、自分のこともほんの少しずつでいいから、愛さなくてはいけない。