「ただいま、遅くなりました」
と、言いかけた言葉尻を飲み込んだ。
きちんと手入れされた幅広の革靴が一足。義母の俳句仲間が一人、訪ねているようだった。確か、理玖のブランケットが届いた日にも、その靴があった。
慌ててスマホを確認すると、
〈来客があります。〉
義母からは、一行だけのそうメールがあったのに、気づいていなかった。
〈。〉の後には、なのでお静かに、とか、食事は自分でなんとかするようにとか、そう言うニュアンスが含まれるはずだった。ひっそり帰宅して、ベビーカーを畳み物置に収納して、角部屋まで入っていけばよいのだ。
「あら、お帰りじゃない?」
客人の声が、廊下を伝った先のリビングから届く。ぶら下げてきた買い物袋を上り框に下ろし、理玖を脇に抱え、ベビーカーを畳んでいると、客人が出てきてしまった。
「まあ、赤ちゃん。ようやく会えた。抱っこさせて」
長いスカートをはいた客人はするりと理玖を抱き上げ、あやすように体を左右に揺らした。
「お外はもう、寒かったでしょう?大丈夫?風邪引かない?あら、ご機嫌さんね」
理玖は今日、二度も同じ言葉を向けられた。本当に表情が豊かになってきたのだ。
「それ、食材?真智子さん、あなた、運んでくださいな」
客人に名前を呼ばれてリビングから出てきた義母が、こちらに愛想笑いをし、
「お帰りなさい。遅かったじゃない」
買い物袋に収まった食材を運んでいきながら言い含む。
「あなた、食事はもう済ませたんですもんね」
私は客人に挨拶をし、理玖を再び受け取り、自分たちの部屋に戻った。
せめて、買い物袋から、みたらし団子だけでも取り出しておけばよかったと思う。なかなか、空腹だ。保温ポットにはまだカフェオレが残っているが、この時間にカフェインを摂ると、理玖は寝付きが悪くなる。
「ママ、ちゃんと出るかな」
ベッドに座り、自分でセーターの上から胸を触ってみる。少し張りもなく頼りない感覚がある。
だが膝の上に抱いた理玖の口元が近づき、乳首が含まれると、母乳は滴るようにあふれ始めた。吸い上げられていく力がずいぶん強くなった。この悦楽は、母親にしか得られない褒美なのだろう。
莉子が、ママのおっぱいは最強グルメでしょう、と言ったのが思い出され、笑えてきた。
母乳を必死に吸い上げながら、理玖の両手が動く。澄んだ肌の色のその両手で五本の指が動き、空をつかむ。今日よりもよい明日を、理玖はきっとつかむ。
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