「今日もご機嫌だね。確か、お名前はリクくん」
不意に長い影帽子が伸びてきて、かすれた声が響いた。
「ここ、座っていいかな?」
ベンチの隣を指さす。
「もちろん。名前を覚えてくれたんですね。理玖、この間いただいたパペットがお気に入りです」
ベビーカーのフレームに、音のなる人形やおしゃぶりなどをいつもぶら下げてある。パペットも、ジップの付いた袋に入れて、ぶら下げてきた。目玉がくるくる回転するからか、鼻がピンクで丸いからか、理玖はこれを見るといい顔をして、手を伸ばしてくる。
「えー、本気にしちゃっていいのかな」
想像していたより、もう少し年齢が上の人に見えた。目尻にゆるく皺が寄っている。
彼女の方から、
「今日は、ちょっと疲れちゃった」
と、言って、
「紅茶も忘れちゃった」
そう言うので、自分の保温ポットを持ち上げて見せる。持参した白の保温ポットから、カフェオレをカップに注いだ。コーヒーで香りが立つだけで、ベンチが自分の居場所になった気がするものだ。そんなことすら思いつかず毎日のようにここへ通っていたと、自分の中にあった石のような感覚を思う。
「それはコーヒーでしょう?しかも、ハワイなんかで売っている、ライオンの絵のじゃない?」
「すごい、よくわかりますね」
「鼻がいいの。でも、残念ながら私、コーヒーは飲めないの」
「紅茶にすればよかったですね」
「いいの。リクくんは、まだママのおっぱいだけなのかな?何ヶ月くらい?」
「この間、六ヶ月が経って、少しずつ、離乳食も始めたところで。でも、離乳食もおっぱいも、どっちも美味しそうじゃないけど」
「そんなことないよ。ママのおっぱいは、最強グルメでしょう?」
その口ぶりから、彼女にはお子さんはいないように感じた。それなのに、この公園に定期的にやってくるのは、理由があるのだろうか。
「母乳って、美味しい時と、美味しくない時があるそうですよ。義母たちが言うには、ブロッコリーやキャベツを食べた後は、母乳は苦いんですって。こんな話、つまらないですよね。すみません」
彼女は、首を横に振り、「楽しいよ。グルメ話は好き」と、かすれた声で笑った。声がふわっと空に吸い込まれていくような笑い声だった。
二人が話している声を、理玖はどんな風に聞いているのだろう。
理玖には、ママがこんなに長く、ごく普通の声でお話している声を聞くのは、初めてかもしれないね。お父さんとは、よく冷え切った声で話していたし、おばあちゃんとは、ぎごちなくしか話さない。私と同じようにベビーカーから空ばかり見ている理玖には、きっとお母さんの声は一番確かな結びつきを感じる綱だったのかもしれないのにね。
「また見てもらっちゃおうかな」
と、彼女は言うと、肩にかけてきたトートバッグに手を入れ、ふわっと手品のように手のひらを開いた。
いきなり、目が合った。
白い胴体に、ブルーの三角帽子、帽子にはオレンジ色の線が一本、目と鼻は同じだけれど、顔のところどころに、カラフルなそばかすのように青や黄色が見える、新しいパペットだ。