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2022.07.21

ママパパの生活

うさぎの耳〈第五話〉スイカの帽子|谷村志穂


行方不明届も捜索願も出してはいけないと言ったのは、義母だった。「行かせるわけにはいかないわよ。そんなことをすれば、家の恥だ」「あの子なら、そのうち帰ってくるわよ。あの子のことなら、あなたよりずっとよくわかってる」「あなたには分からないでしょうけどね、そろそろ帰るわよ。まったく手がかかるわね」

その言葉にすがった私自身もいた。

「今になってお義母さんがそうおっしゃる理由を訊いてもいいですか?」

「別に、もう、そういう時期なんじゃないかと思うだけ」

玄関先で放っておかれている、理玖がぐずり始めた。

そんな簡単に片付けないでほしい。実の母が、「あの子なら」と言うのだから、そこには自分の知らない夫がいるのかもしれない、と賭けていた。いや、やはりその賭けに逃げ込んでいたのだ。

「時期、なんですね。時期というなら、もうはじめからとっくにそうだったじゃないですか」

そう言って立ち上がろうとすると、義母は唇を噛みながら言った。

「あなたは理屈ばっかりね。それは隆也だって嫌になるわよね」

ルーズなワンピース姿の義母は、そう言い放つ。黙って玄関へ出ようとすると、

「少し待ってて。メモを作るから。この間の鰹が美味しかったから、今日はたたきでもらおうかしら」

黙ってメモだけ受け取るつもりで立っていると、掠れた声でこんな呟きが響いた。

「二人で初鰹を食べていたことだってあったんでしょう?そういうの、いい夫婦っていうんじゃないの?そういう時期だってあったわけでしょう?早く見つけて、出てってほしいのよ」

玄関先で靴を履こうとして、手に洗面器を持っていることに気づき、物置にしまった。義母からメモが渡された。

〈何もなし〉

流れるような字で、わざわざそう書かれていた。

「たたきも、要らないんですね?」

「あの子だって、今頃どこかでは季節を感じてるはずでしょう?隆也は、頭のいい子なのよ。幼稚園の頃から旬のものだってすぐに覚えて。なぜそんな子が鬱になるの?あなたが追い詰めたんでしょ?」

私は、義母の心が荒ぶってくるようで、そして荒ぶった心に乗せられるさまざまな感情に飲み込まれそうで、逃げるように外に出た。

同時に義母の話に出るような夫と過ごした時間も思い出した。何の贅沢をしたわけでもなかったが、突然思い立って、旅に出た。話に出た鰹を求めて高知まで十時間以上かけて出かけたことだってあった。まだ学生だった時だ。寝台特急から特急へと乗り継いだ。電車は揺れて、車窓の景色は刻々と変わっていった。

有名な足摺岬までは、バスで出かけた。断崖から見下ろしていると、黒潮がぶつかる。「波が生き物みたいだな」と、隆也は言った。断崖の舳(へさき)まで進んで、しばらく覗き込んでいた。目的だった鰹は、もう名前は忘れてしまったが、海辺に並ぶ建物で食べた。わら焼きの燻された匂いが充満していた。

隆也は旺盛に食べていたが、本当にただ鰹が目当てだったのか。

隆也、あなたは今どこにいるの?ちゃんと食べて、生きてるよね?時々でも、理玖や私のことを思いだしてる。理玖は、もうお風呂ではしゃいで遊ぶんだよ。
 

E駅の外のベンチで莉子を待った。

理玖をベビーカーから出してやり、空に高く抱き上げたり、膝の上に立たせたりしていても、なかなか義母との会話によって始まった胸のつかえが、解けていなかった。

義母に止められた、というのを言い訳に、捜索願を出さずに来た。それはやはり間違えだったのだろうか。出さずにいることで、逃げていたろうか。

「ごめん、ちょっと遅れたね。リーク、くん、今日のお人形はね、ちょっと季節には早いけど、頭にスイカ載せちゃった」

紺色のパペットくんの頭上には、三角のスイカが載っている。理玖は目の前で動いたスイカが、自分の鼻先にチョンチョンと当たるのを、ごーっ、ごーっと息を吸いながら笑っている。

「また素敵な子が生まれましたね」

「そ、リクくんに渡せると思うと張り切っちゃう。海まで歩こうか」

ベビーカーは、莉子が押してくれた。

心地良い、この時期にしかない風が吹き、頬を撫でていく。夫も、どこかでではこの風を感じているはずなのだと信じたかった。

海からの明るい陽射し、浜辺には、サーフボードを手にした人たち、気の早いことにビキニ姿の若い人たちもいる。

ビニールシートは郵便局のもらい物だ。二人で座り、理玖は莉子の両手に抱かれている。

「美夏さん、なんかあった?」

「どうして?」

「何もないなら、いい」

保温ポットの紅茶と、クッキーを出して、莉子にも薦める。

「ひと月ぶりだから、莉子さんに会えたの。何かあったと言えば、まず、私たちの部屋が二階のふた間に昇格しました。あとは、そうだ、この子を編んだ」

ポケットから、パペットを一つ取り出した。
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谷村 志穂 作家

北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部卒業。出版社勤務を経て1990年に発表した『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーに。03年長編小説『海猫』で島清恋愛文学賞受賞。『余命』『いそぶえ』『大沼ワルツ』『半逆光』などの多くの作品がある。映像化された作品も多い。

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