パラパワーリフティング選手として活躍する山本恵理さん。先天性二分脊椎症(にぶんせきついしょう)により生まれつき両足が不自由な山本選手は、現役アスリートでありながら【日本財団パラスポーツサポートセンター】に所属し、障がい者や健常者だけに限定されない「お互いの違いを認め合って共生していく社会づくり活動」も行なっています。
パラリンピック出場という大きな夢と、誰もが心地よく暮らせる共生社会をつくる目標…決して簡単ではない夢や目標に向かって突き進む山本選手の原動力とは?そこには、山本選手のお母様の子育て方針が大きく関係していました。
引っ込み思案で自信がもてない私を“自立させたかった”母
―――パラパワーリフティングの選手として活躍する山本選手ですが、スポーツとの出会いは水泳だったとか?
「水泳を始めたのは9歳のとき。母に水泳教室に無理やり連れて行かれて、それが水泳との出会いでした。もともと私は水が苦手で、お風呂も嫌いだしシャワーを浴びるのもイヤ。
多分なんですけど、1歳か2歳くらいの頃に浴槽の中で転んだことがあるんです。そのときに耳に水が入って、転んだことと、耳の中が気持ち悪い感覚が残っていて、水に対して嫌悪感しかなかったんだと思います。
でも母は、生まれながら障がいがある私をとにかく自立させたい人で。『恵理がひとりでも生きていけるようにする!』が母の目標だったんです。
そういう人だったので、娘がこのまま水が嫌いだと何もできなくなる、水害がきたら危ない!と言いながら、嫌がる私を水泳教室に引きずって行きました(笑)。
溺れる悪夢を見た翌日に水泳教室に連れて行かれたので、実際に溺れてみんなを諦めさせようと思って水につかったんです。そうしたら、溺れる!って思った瞬間に背中から浮いてびっくりして、そのままひとかきふたかきしたら体が進んで…」
―――それが水泳との運命的な出会いだったんですか?
「衝撃的!運命的!私にはコレだ!というよりは、これだったら私でもできるかも…って。小さい頃からずっと自信がなくて人見知りでありがとうも言えない子どもだったので、このとき初めて自分の中で“何かができる”と思ったんです。
水泳を継続する気持ちより、楽しいから毎日泳いでいたというワクワク感で続けていました」
生後1ヶ月で手術。後ろを振り返っても何もない。とにかく前へ前へ…
―――スパルタなお母様に無理やり水泳教室に連れて行かれたことが、結果オーライだったのですね。
「母は常に前を向いている底抜けに明るい性格の人なんです。それは今も変わりません。多分、私が障がいを持って生まれてきたときに腹をくくったんでしょうね。生まれてから突然『娘は障がい児だ』と知るわけですから。
産婦人科クリニックで生まれて私だけすぐNICUがある病院に転院して、生後1ヶ月のときに手術。母乳を絞って病院に届けるとか母も色々な苦労はあったと思うんですけど、実は当時の話は母からあまり詳しく聞いたことはありません。そういう苦労話は私には一切してこないですし、私も聞きたいとは思わないです。
というのも、母も私自身も【昔より今が大事】だと思うタイプなので。例えば母に、生まれたときどうやった?って聞いたとしますよね。そこで、あのときは死ぬかと思ったわ~って言われたところで…じゃないですか(笑)。
私の背中にはコブがあったので、手術をして退院して家に戻ってくるまでうつぶせの姿勢でしかいられなかったんです。でも母から、ずっとうつぶせやったから頭の形がよくなったと言われて(笑)、本当にそういう話ししかしないです。
それでもやっぱり大変だったとは思います。生まれたときの写真が私は弟より少なくて、多分写真を撮る時間もなかったんでしょうね。因みに、弟の頭は絶壁です(笑)」
―――たしかに山本選手の頭の形、すごくきれいです(笑)。底抜けに明るいお母様に山本選手自身も影響は受けていますか?
「私は日本財団パラスポーツサポートセンターに所属していて、そこで『あすチャレ!Academy』という研修プログラムを広める講演活動を全国で行なっています。企業や自治体向けだったり、小中学校や養護支援学校向けだったり、年齢性別さまざまな方と日々関わっています。
もともと引っ込み思案で人見知りな性格ですが、母の影響もあってか、私の講演はいつも“前”なんです。後ろを振り返っても何もありませんからね!」
ファミリーでクイズやアクティビティを行いながら「ふつう」と「ちがい」について考える【あすチャレ!ファミリーアカデミー〈特別版〉】で講師を務める山本選手。【あすチャレ!】についての詳細▶
https://www.parasapo.tokyo/asuchalle/academy/