【ベビモ】はじめてママ・パパの悩みを解決

検索

menu

カテゴリー一覧

FOLLOW US!

  • LINE
  • Instagram
  • YouTube
  • Tiktok
menu

MENU

会員登録
menu

2024.08.16

0歳

うさぎの耳〈第九話〉緑の髪のパペット|谷村志穂

photo by Nakamura Akio

初めから読む

由希奈からの電話で聞き書きしたファームの名前には、はじめ覚えがなかった。けれど、すぐにわかった。そこはどんな理由なのか、名前が変わっていた。前身であるファームは、昔から、隆也がよく憧れを口にしていたファームだった。

隆也は間違いなく、そこにいる。そこへ行けば、きっと隆也に会える。

全身が俄(にわ)かに熱を帯び、後に倒れそうになり、理玖が昼寝をしているベッドの端に腰掛けた。

会って、どうしたいのだろう。

なぜなの?と。

なぜ、黙っていなくなったのかと訊きたいのか?もう自分が嫌いなのか?それとも、はじめから好きですらなかったのか?

急に、今出かけるべきは自分一人であることに気づいた。

これは、理玖と自分と隆也の問題ではなく、隆也と自分の問題なのだ、と。



新千歳空港まで行けば、車で一時間もかからない。北海道まで行けば、なんとかなる。

急いでいつものカーキ色のバッグに、理玖の着替えやおむつ、哺乳瓶などを詰める。

ベビーカーを押して、最寄り駅まで進む。

ちょうど帰宅ラッシュの時間だったこともあり、駅はごった返していた。理玖は抱き抱えたのだが、泣き出して止まらなくなり、ベビーカーも畳んだところで身動きが取れなくなった。

途中の駅で降りて、莉子に電話をした。

「やっぱり、直接タクシーで莉子さんの家まで向かいます。近くで待ってていい?」

仕事中だったはずだが、莉子は小声で、

「それなら、なんとか、M駅まで来られる?」

と、仕事場のある最寄り駅を口にした。

莉子は今、サウナのある施設で、マッサージの施術の仕事をしている。なんとそこには、付属の保育施設があるのだそうだ。自分の子でもない理玖を預けられるのかと訊いたら、

「そこはちょっと嘘つかせてもらうよ」

と、カラッと言った。

「うちの子に、する」

「何日かはかかるかもしれないけど、本当にいいの?」

「なんとかするよ。だめなら仕事休めばいいし。ようやく見つかりそうなんでしょ?」

指定された最寄り駅でタクシーを降りると、施術用のピンクのストライプの制服を着た莉子が、汗ばんだ顔で、待っていてくれた。かっこいいとは言えない制服なのに、一つに結んだ髪が首の後ろのいい位置にあり、洗練されて見えた。

思わずそれを伝えると、

「そんなことに気づく余裕があるとは、感心。本当は、ついていってあげたいくらいだけど、代わりに、リクくんをしっかり見ているから。ちゃんと話しておいで」

ベビーカーのハンドルを、莉子が受け取る。

「リクくんの分の荷物、こっちに移して」

「あ、それ全部、理玖の」

そう言われて、ベビーカーにかけてあった、カーキ色のバッグを指さす。

自分は、ショルダーバッグ一つになった。

「潔いね。丸腰で行きますか」

呆れたような顔で笑ってくれたのが救いだった。

理玖が、またぐずり出し、こちらに向かって手を伸ばしてくる。

「リクくんも、覚悟を決めよう。ママきっと、父ちゃん、捕まえてくるから」

と、ベビーカーのシートで身を逸らしてむずかる理玖の頭を撫でる。きっと今日はしばらくこんな風かもしれない。

「莉子さんしか頼る人がいなくて、本当にごめん」

「いいから、早く行きなよ。旦那ね、あなたの顔を見たら、逃げ出すかもしれないよ。それも、覚悟してるよね?」

逃げ出す隆也は、想像もつかなかった。ただ、頷くしかなかった。想像なんて、何一つ出来はしないはずだった。ここまですべてが、想像もしなかったことの連続だったのだから。

「じゃあ、行きます。また、連絡します」

地下鉄への階段を下りていく。ベビーカーも荷物もなく、莉子の言う丸腰で階段を下りるのは久しぶりだった。途中、振り返ると、もう二人の姿はなく、そこにはぽっかり開いた地上への出口と、茜色に染まり始めた空が見えた。

次ページ > 

撮影/中村彰男 校正/岡村美知子

谷村 志穂 作家

北海道札幌市生まれ。北海道大学農学部卒業。出版社勤務を経て1990年に発表した『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーに。03年長編小説『海猫』で島清恋愛文学賞受賞。『余命』『いそぶえ』『大沼ワルツ』『半逆光』などの多くの作品がある。映像化された作品も多い。

SHARE

  • facebook
  • Twitter
  • LINE

関連する記事

ランキング