パラパワーリフティング選手として活躍する山本恵理さんのインタビュー後編。
前編では、山本選手が育ってきた環境や、お母様に教わった生きるうえで大事なことなどについて伺いました。
後編では、山本選手の夢と挫折、パラパワーリフティングとの出会い、今後の目標についてお話しをお聞きします。
水泳でパラリンピックに出る!その夢が突然絶たれる出来事が…
―――9歳で始めた水泳。何事にも消極的だった山本選手が水泳に出会って初めて自分の中で“何かができる”と思われたそうですが、その水泳とも別れがあって…。
「健常者のスイミングスクールには入れないので障がい者の水泳教室に通っていました。その後、大人で構成された神戸の水泳教室『神戸楽泳会』(こうべらくえいかい)のジュニアチームに編成されて。
楽泳会はパラリンピアンを多く輩出している名門で、もちろん私も水泳でパラリンピックを目指していました。でも、高校2年生のときにプールサイドでやけどをしてしまったんです。
夏の暑い日にコンクリートに腰かけて友達と喋っていて、でも、コンクリートが熱いことを知らなくて、私は痛覚がないので低温やけどをしていることに気づかなかった。その1ヶ月後くらいにやけどの部分が化膿して発熱してどんどん悪化して、そこから入院して1年間学校を休みました」
水泳選手としてあともう少しで日本強化選手に入れるというタイミングでのケガでした。退院できるのは高3。また再び水泳で勝負するか、諦めて別のキャリアで勝負するかを考えたときに、高2の大事な時期を全部休んでしまっている現実がありました。
水泳のロスを1年で戻すことはなかなか難しいので、もう水泳はだめだな…って思ったんです」
入院中に見えた、自分のやりたいこと&自分の未来像
「整形外科に入院していたのですが、そこに入院しているのは、内臓は元気だけど、事故やケガをしていて足や手が動かないといった方々でした。
ある日、テレビカードを買いに食堂に行って1000円を機械に入れていたんですね。それを見ていたおじさんが話しかけてきて、『お金入らへんのか?』『そうなんです』『1000円札別のやつに変えたろか?』『じゃあ諭吉(1万円)に変えてください』って言ったら、おもしろい子だと思われて。そこからおじさん達の仲間に加わって食堂で大富豪をやる日々(笑)。
そこでまた別の人が話しかけてきて、『俺は足を複雑骨折して、足が動かなくなって悩んでいた。毎日こんなに笑うと思わんかった。あんたを見ていると、なんで俺はこんなことで悩んでいたんやろって思うようになった』と、高校2年生の私に言ってくれて。そのときに、ハッ!って思いました。
―――その方の言葉に何か感じるものがあったのでしょうか?
「はい。ちょうどそのタイミングで外泊で家に帰っていて、そのときに母がすすめてきたロビン・ウィリアムズの『パッチ・アダムス トゥルー・ストーリー』(精神科に入院した経験のある医師アダムスが、ユーモアで患者を楽しませ勇気づける物語)という映画を観て、これが私がやりたいことかもしれない!って思いました。それこそ、ビビッときて、心理学の道に進みたいと感じた瞬間でした」
―――水泳に出会ったときとはまた違う感覚、まさに運命的な瞬間だったんですね。
「長年がんばってきた水泳の道を諦めるのと同時にその新しい夢がガンッて自分の中に入ってきて…。生きているだけで人を助けられたんだと思った瞬間に、もっと人を楽しくさせたい!と思ったんです」